言葉にふくまれる思いと、その背景と

  

時間に吸い込まれるように、過ぎて行った 4月、5月。

娘が小学1年生になり、世間でいわれる「小1の壁」とやらに直面しながら、新しい日常を、暮らしのなかに落とし込んでいく作業に追われています。

 

 

言葉が導く、思考と未来

新しい環境に身を置くと、不安や焦りから、無意識のうちに「できなかったこと」に目が向いてしまい、心がざわざわ。うまくいかないことが続くと、トゲトゲしてしまうことも。娘も、それを見ている私も。

でも、こんなときだからこそ「できたこと」に、しっかりと目を向けたい。と、寝るまえに布団のなかで「今日、自分が “できたこと” を3ついって、たっぷり褒めあう」という時間を、娘と作るようにしました。 

宿題ができた、とか、苦手な野菜をひと口食べた、とか。私なら、おかずがおいしく作れた、とか、食器洗いができた、とか。大きな挑戦じゃなくても、日常の些細ながんばりをあらためて言葉にすると、明日もがんばれそうな気がしてきて、このうえない満足感に浸れます。

 

「できたこと」の言語化は、「できたことが、何もなかった日なんて、ないんだ」という当たり前のことに気付けるとともに、「できたこと」の積み重ねによって「今」があるんだ、という自己を肯定するような、誇らしい気持ちになれるよう。

  

「言霊(ことだま)」効果というのでしょうか。発する言葉が、いかに思考と繋がっているか、未来を引き寄せるのか、そんな効用を少しずつ感じています。

  

  

   

言葉に込められた思い

先日、職人さんの工房に伺ったとき、山菜とりの話から「ばっきゃ」の話になりました。

「ばっきゃ」とは、ふきのとうのこと。語源は諸説ありますが、アイヌ語の「春」を意味する言葉が転化したともいわれているそうです。

  

話のなかで、私が「ばっきゃって、ふきのとうのことですよね?」と、確認すると、「ばっきゃは、ばっきゃ、なんだよ。ふきのとう、じゃねぇんだよなぁ~(笑)」と、職人さん。

ふきのとうという呼び名が間違いではないけれど、「ふきのとうの芽が出たよ」と、いわれても、どうもピンとこないのだとか。

  

職人さんの言わんとすることが感覚的に理解できたのは、私の生まれ故郷・茨城にもたくさんの方言があり、「トウモロコシ」は「トウミギ」とよばれていたのを思い出したから。

もちろん「トウモロコシ」でも伝わりますが、やっぱり「トウミギ」のほうが、しっくりくるんですよね。

 

脳裏の引き出しには「トウミギ」という呼び名とともに、土のにおい、風のそよぎ、トウモロコシの甘い味、家族の何気ない会話など、思い出を構成するすべての要素が一緒にインプットされていて、「トウミギ」という言葉を引き出すと、それらが一緒にフワッとでてくるのです。

 

きっと、職人さんのいう「ばっきゃ」にも、たくさんの思いや出来事が一緒に集積されているのだろうと想像しました。

 

さらに「ばっきゃ」には、秋田の自然観が、重ねられている気がします。

「ばっきゃ」が芽を出すのは、3月下旬から4月ころ。秋田では、長い冬がようやく終わりを迎えるころにあたります。

山菜のなかでもひときわ早く芽を出す「ばっきゃ」は、まだ凍てつく雪の中からひょっこり顔を出すことも多く、真っ白な雪のなかにその姿を見つけたときは、「生きてくれて、ありがとう」と、声をかけたくなります。

おおげさに聞こえるかもしれませんが、それくらい愛おしく見えるのです。

 

冬の終わりと、春の始まりを告げる「ばっきゃ」の到来に、人々は歓喜し、春を呼ぶ代名詞になることも。過酷な雪国を生きる秋田の暮らしと、その人々を支え続けた、あたたかく確かな関係性が「ばっきゃ」という言葉には、込められているのかもしれません。

 

 

 

「んだから」にふくまれる共感力 

ちなみに、私の好きな秋田の言葉は「んだから」。

以前にインスタで投稿したこともありますが、

 

 

「んだから」は、共通語でいう「そうだよね」という意味。相手の言葉に対して「うん、うん」と、相槌をうつように使います。

 

移住当初は「だから」という接続詞だと思ってしまい、次に繋がる言葉を待って、妙な「間」が生まれたものですが、聞き慣れた今では、自分でもたまに使うほど気に入っています。

 

相手の言葉を包み込むような共感力の強さが「んだから」の良さで、場の空気を一気に和やかにするパワーがあります。

 

そしてやっぱり「んだから」は、「んだから」。

他のどの言葉にも代えがたく、場の空気に、バシッとハマる瞬間があるのは、さすが、使い込まれた地元の言葉だなぁと感心します。

 

難易度が高いともいわれる秋田特有の言葉は、私もまだまだ知らないことだらけ。

でも実際に耳にした言葉を使ってみると、わりと使いやすい言葉も多いように思います。イントネーションが独特な茨城弁よりは、習得しやすい気がする…なんて、思ったり。

 

毎日使うものだから、大切に言葉と向き合い、ときにうまく操りながら、その言葉に込められた意味や背景を、できるだけ正しく、理解していけたらと思います。

言葉にふくまれた郷土の風土や価値観は、私が想像する以上に大きく、きっと深いものだから―。

 

  

  

 

 

 

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